親しい人を自殺で亡くした人に対してしてはならないこと。

悪気はないにしても、私は心ない周りの言葉に対して苦しんだ。

 

http://www.bandbacktogether.com/how-to-cope-with-loss-suicide/

に載っている周りの人間が「してはならないこと」には、深く頷いた。

 

私の場合は、西洋圏で起きたことであるので、英語のサイトが役に立つし、そのまま受け入れられる部分がほとんどであるが、日本の場合は少し事情が違ったりするかもしれない。

日本語で親しい人を自殺で亡くした人のためのWebサイトは2つ3つしか見つからなかった。

それが、私がここに日本語訳を載せる理由の一つでもある。

 

1.Don’t try to comfort the suicide survivor by saying, “it was a terrible accident.” The suicide survivor must deal with the fact that their loss was due to a suicide.

「あれは事故だっとのよ。」などといって慰めてはならない。親しい人を自殺で亡くした人は、それが自殺による死だったことと向き合わなければならない。

 

 

–これは、私は言われなかった。遺書は無かったが、目撃者も多くいて、明らかな自殺だったからかもしれない。彼が母国で親しかった友人に「(自殺したなんて、信じられない。)事故に違いない。」と言われたが、それはその友人が自殺という現実を受け止めたくないという思いなのであって、私を慰めようとして言った言葉ではないことは明らかであった。その言葉を聞いて、私は自殺した時に一番近い場所に居た人間であったので、自殺を止められなかったことに対する罪悪感を感じたが、この文面の意図する意味とはまた異なるものであろう。この友人の「事故に違いない。」という言葉は、彼とこの友人の親密性、この友人の悲しみから出てきた言葉であり、文面の「あれは事故だったのよ。」とは全く異なるものであろう。

 

2.Don’t compare your grief about other deaths to your loved one – the grief of a suicide is very different than most other types of deaths.

自分が親しい人を亡くした経験と比べてはならない。自殺で親しい人を亡くす苦しみは他の多くの死の原因とは違うものなのだから。

 

 

–これが一番私が、周りから言われて苦しんだものである。親しい人を亡くした経験を語られても、それが自殺でない場合、こちらは余計辛くなる。自殺というのは、他の死とは違うのである。確かに、どの死も辛いものではあるが、種類が違うのだ。しかし、本当に多くの人がこの過ちを犯す。親しい人を自殺で亡くした経験を語ってくれた人もいた。その話によっては大変癒やされた。自身の辛い体験を共有してくれたことに感謝したい。

 

3.Don’t tell stories to suicide survivors about your friend or someone else you know who tried to commit suicide, which means you totally understand how they feel. Whomever you knew who attempted suicide lived, theirs did not.

あなたの友人や誰か知っている人が自殺を試みて、自殺が失敗に終わった話をしながら、気持ちが理解できるようなことを言わない。あなたの大事な人は結局のところ生き延びることが出来たのだから。

 

 

–これは実際言われた。同じく研究に従事する人間で、自殺を試みたが失敗に終わり、右足を失った同僚を過去に持つ、現在の同僚の一人から言われた。私はこの話によって、辛い思いをしなかったのは、気持ちが理解出来るという文脈で言われたからではなく、私も自殺するようなサインには全く気づかなかったという文脈で言われたからであろう。しかし、この話によって、なぜ彼の自殺は失敗に終わらなかったのだろう、失敗に終わればよかったのに、と思うようになった。

 

4.Don’t go over the signs of suicide with a suicide survivor, as the suicide has already taken place. Saying things like, “there must have been some signs of depression,” only compounds the suicide survivor’s guilt.

自殺の兆候があったかどうかを、調べようとするな。自殺はもうすでに起こってしまった事柄である。「うつの兆候があったに違いない。」などという言葉は、自殺した人間と親しい人間に罪の意識を植え付けるだけである。

 

 

–これは、本当にもう。生きている彼に最後に会ったのが私であり、普段から一番密に接していたのが私であるから当然ではあるが、「なぜ、自殺したのか?」、「一体何があったのか?」ということを周りから聞かれ、そのせいで深い罪悪感を私は抱いた。周り全員から責められているように感じた。死ぬべきは私の方だと言われているように感じた。

 

 

 

親しい人間を亡くすという経験は、ある程度の年齢に達せれば、ほとんどの人間が経験することであろう。

しかし、自殺で親しい人間を亡くすという経験は、稀なものである。

自分が経験したことのない苦しみを理解するのは難しいものであろう。であるから、多くの人間が、悪気もなく、間違った言葉がけを行ってしまうのであろう。特に、2の自殺以外の死と比べられることは多くの人が行ってしまうことであるようだ。

多くの人に理解されない苦しみという事実自体がまた苦しみの一つにもなる。

同僚のポスドクが自殺した 1

今月はじめ、同僚のポスドクが自殺した。

 

私はそのポスドクのことを、今まで会った研究者の中で、最も優れている研究者だと思っていたし、今もそう信じている。

私が彼をそう評価すると、死んだ彼を美化していると思われることもあるが、そうではない。

もし、彼が将来テニュアを取れなかったら、アカデミアの世界はおかしい、間違っている、とさえ思っていた。

しかし、生きていくことさえ出来なかった。では、アカデミアの世界というよりも、この世界自体がおかしいのか。

 

私の所属する研究グループは世界的に超有名な研究者が何人もいる。(必ずしも、超有名=超優秀ではない。)

その中でも、彼が物理学者として、一番才能があると思っていたし、今も思っている。

物理全般に対する幅広い知識、データに対する深い洞察力。

測定装置に対する深い知識。物理の理解を深めるための数学の知識。

測定のためのプログラミングや、シミュレーション。速くて正確。

悔しいが、どんなに努力しても、一生、彼には敵わないだろう、と思った。

 

私の所属する研究グループに彼が加わったのは、9ヶ月前。私が既に進めていた研究プロジェクトに彼も参加することになった。